DTPを始めた頃の話

30年前のことを思い出して書こうと思う。
聚珍社ができたのが91年で、府川充男氏の『組版原論』が出たのが96年だかだから、だいたいそのそのへんの5年間、何をやっていたか。

(本題の前に、DTP以前のこと。飛ばしてかまわない)

校正の仕事を始めたのは、天安門事件のちょっと後だ。僕は31歳。20代はアルバイトで入った会社で正社員になって3年で辞めるというのを2回やって(もうちょっと我慢すれば退職金が貰えるというところで辞めている)、三度目の正直、やっぱり退職金を貰い損ねて次は何をしようかという時にゴールデン街のママの紹介で東京出版サービスセンターという会社でフリー校正者をやることになった。
校正という仕事は、印刷と文字についての知識と、一般常識より少し深くて広い見識を必要とする専門職だ。というのは建前で、日本語が読み書きできれば誰にでもやれる高収入バイトだった。世間ではバブル経済が終わりを迎えていたが、この業界ではもう数年バブルが続いた。
初仕事はスーパーのチラシの校正だった。いきなり面喰らう。「原稿だ」と渡されたのは、写真も入ってカラー印刷されたチラシ。「ゲラだ」と言われたのは文字だけが打たれた白い紙。逆じゃないの? 後からわかった仕組みはこうだ。商品写真と配列が決まって、印刷所では流用の店名や地図などと合わせて色校正紙を出す。クライアントは締め切りギリギリに量目や価格、商品説明を赤字として書き込んで返してくるので、それを見て写植印字をして台紙に貼り込み、コピーしたものがゲラなのだ。右も左もわからないまま、何とか右と左を合わせ、ついでに商品名の表記が間違ってるのではと疑問を出して返すと、現場を仕切る先輩に怒られた。
つまり、我々は印刷所に雇われているのであって、スーパーや代理店に雇われている訳ではない。クライアントが書いてきた通りなら、キノ子の山だろうがブラックターガーだろうが構わない。構うのは、2個が3個になっていたり298円が248円になっていたりしないかどうかなのだ。
8時間働いて疲れ切って帰ると、事務所から電話が来た。「13日、同じ所」。ハイと返事してガッカリする。確かに「毎日仕事があるとは限らない」とは言われていたが、6日先まで仕事がないとは。賢しらなことをしたからか? いやそれならもう一度呼ばれはしないだろう。で、翌日午後2時頃電話が鳴った。「なんで来ないの?」。昨日の現場のチーフが冷たい声で言う。「え、13日って聞いたんですが」、「そんな先の予定が立つ訳ないでしょ、13時」。済みません済みません。2時間遅刻して頭を下げまくる。
そんなこんなで毎日仕事はあり、行く現場も新聞だったり雑誌だったりで、媒体により流儀は様々だった。
新聞にしても電算機で印画紙出力のところもあれば、活版のところもあった。どちらにしても原稿はまだ手書きで、電算機ならワープロ印字で小ゲラ(記事ひとつだけのゲラ)が出るし、活版なら活字を組んで刷ったものが出る。小ゲラは余白が十分にあるし、急ぎの仕事だから赤字は大きく大胆に書く。ゲラを返すと直ぐに直したゲラが返ってくる。OKが出たら新聞一面分のサイズに割り付けられる。これを取り仕切るのが整理部の記者。その下で日雇い校正者はOKの小ゲラの束を持って最終確認。電算機の場合、この段階で初めて新聞の書体になる。小ゲラの時には気づかなかった誤植が結構見つかるのは書体のせいということもある。一方活版の場合は「実物」を並べ替えるわけだから、写真が入って字詰めが変わったりすると、こぼれたりひっくり返ったりする恐れ(ベテランの作業員は滅多にそんなヘマはしないが)もあって入念に引き合わせをしなければならない。ただし時間はない。ここで誤植を見つけたら、作業員さんに直にゲラを見せてお願いするのだが、新人とみると意地悪をして「じゃ、その字拾ってきて」などと言う。壁一面活字の詰まった棚が並ぶ中から目当ての活字一本を探し出して持っていくなんで素人にできるわけがない。あたふたしてるうちに彼らはサッと直してもう一度ゲラを刷ってくれるのだ。


まぁ、そんな日々を過ごすうちに、事務所で内紛が起きた。その結果、聚珍社が誕生する。社内政治に興味のない僕には関係のない話だったが、親しくなっていた人たちが皆移るというので僕も移籍した。
最初の事務所は神楽坂近くの二階建て木造の家を借りたもので、一階が事務所、二階はフリースペースとなっていた。
聚珍社はフリー校正者の集団である。会社は会員を現場に派遣し、その売り上げの10%をピンハネする。当時は派遣業法もなかったが、まぁ派遣会社みたいなものだ。校正の料金はクライアントによって変わるが、老舗の「センター」から現場ごと移籍して始めた聚珍社は結構高い料金をふっかけていた。時給はおおむね2600円、最低でも8時間。仕事が少なくて3時間で終わっても料金は8時間分を請求する。超過すると5割増し、日曜祝日も5割増し。深夜(0時過ぎ)は2倍。ほぼ実話だが、大手印刷会社に旅行ガイド本の下版前確認作業で行った。編集部から来た責了紙と下版前のゲラを照合する。ゲラは一折ずつ(32ページかな)出てきて、それを数人で分け合って作業、同じページを2人が見る。3校くらいまで進んでいるから赤字はそんなにない。1ページに5ヶ所あるかどうかだが、たまに400字くらいの差替え原稿が付いていたりする。2人目の時はただ見るだけかと思いきや、ポロッと見落としがあったりする。自分だってやらかしてるかもしれないから、黙って赤字を入れておく。一折チェックし終わると暫くは待ち時間。同僚と雑談する人もいれば、目を瞑ってじっとしている人、本を取り出して読み耽る人と様々。字を見る仕事の合間にさらに字を読むなんて? 結構多いんだな、このタイプ。で、祝前日の午前10時に開始して、翌日の(つまり祝日の)午前2時までかかった。2600×8+2600×1.5×6+2600×2×2=54600。プラス帰りのタクシー代。まあ、こんな仕事はそうそうないが。
普通に働けば1日20800円、月20日働いて416000円、ピンハネされて374400円、源泉徴収されて336960円の手取り。悪くない。しかしボーナスもなければ各種手当もない。交通費は出るが、それ込みでピンハネ源泉徴収される。となると、確定申告で税金を取り戻さないとやってられんということになる。いやこれも余談。
そこにある日、一台の機械が設置された。Macintosh IIfxだった。1991年、DTPは始まったばかりだったが、「校正者たる者、活字や写植の知識に加えてDTPについても知っておかねばならない」「そのためには、まず機械に触れてみよう」。そう言い出して導入を提案したのが府川氏である。まぁ自分が触ってみたかったのだろう。

(ここからが本題)

当時、聚珍社の会員はほぼ100人、平均40万稼いでいたとして会社に入るのは月400万、家賃と事務員の給料を払うと幾ら残るかな。そこから社長はじめ四、五人の役員の報酬を引く。ちなみにこの会社は会員が一人一株ないし二株出資して作られた。株主たちは自分たちからピンハネされた金の使い途にはうるさい。利益が出れば配当として返ってくるのだし、会社が儲かるに越したことはないはずだが、利益には税金がかかる。会社が利益を出すべきか否かが本気で討論されたりした。
こんな会社に、設備投資に回す金があるだろうか。
二階のMacintoshに「道楽」だ「公金横領」だと顰めっ面をする会員も少なくなかったのも当然ということになる。それでも新しいものに興味津々の会員も何人かいた。大概はオマケのゲームでちょっと遊ぶ程度。フリーソフトの『Mac書道』(マウスで画面に筆文字を書くだけのもの)とか。ソフトがなければただの箱なのだが、DTPのためのソフトは高かった。買う金はない、どうしたものか。ある日起動してみると新しいソフトがインストールされていた。QuarkXPress3.1、最もコピーされたDTPソフトだ。府川氏が誰からか貰ってきたようだ。これでDTPの「研究」ができる。
ここからの話、当時でも違法、現在なら論外なことが続出する。五万十万するものをいくつも買い揃えなければDTPはできない。それで金を稼ぐためなら真っ当な投資だが、制作の仕事を取ってくるあては当面ない。そこで友人知人から貰ってくる。アプリケーションもフォントも。ロックがかけられてコピーできない筈のフォントがごっそり入ったディスクとか、ドングル(機械とキーボードの間につなぐ部品。これが認識されないとアプリケーションが起動しない)無しで動くQuarkXPress3.3とか。
もちろん数年後、聚珍社がDTP制作を請け負うようになってからは、機械もソフトもちゃんと金を払って買っている。
「聚珍社Macintosh project」(仕事帰りに事務所二階に立ち寄って機械に触ってみる数人のメンバーと、校正の仕事にはほとんど行かずひねもすQXPをいじり倒す府川氏で構成されたグループ)の活動は、社内報の制作と雑談であった。

個人的な話をすると、コンピュータは初めてではなかった。82〜84年頃、ある工場で働いていて、在庫管理の仕事をしていた。工場は受注から生産管理、製品発送、請求書作成まで(途中人力も入るが)コンピュータ化されていたので、在庫管理もコンピュータで行っていた。PC98に5インチのフロッピーを2枚差して起動する。一枚はプログラムディスク、もう一枚がデータディスク。消費された製品の数量は他部署から回されたプリントアウトでわかるので、それを手入力して在庫状況を更新していく。データがあるのに手入力? 残念ながら生産時に不良品などで廃棄された分はデータになっていないので、手書きの数字が紛れ込んでいる。それを修正するための手入力なのだ。新製品や廃番があるとテーブルを書き換える必要があり、BASICのプログラムを修正することになる。一から書くのは無理でも、既存のものをいじるくらいなら覚えるのは簡単。一字ミスタッチして動かなくなってやり直しなんてことは日常だが。受注は電話とファクシミリ、あと大阪の工場と一日一回、受発注のデータ交換を音響カプラでやっていた。ある日常務が朝礼で宣言した。「来月からシステムをMS-DOSに切り換えます」。ところがオイラはその月のうちに社長と喧嘩して退職してしまった。ここで我慢できれば退職金も出るようになるし、えむえすどすも覚えられたのになぁ。
ワープロ専用機を初めて買ったのは86年頃だろうか。字の下手さには自信があったので、家電量販店に各社のワープロがずらりと並んだあたりで欲望が抑えられなくなった。店頭で試し打ちして「魑魅魍魎」が変換できる機種のうち、一番安かったエプソン製のものを買った。当時はJISの第一水準しか搭載してない機種もあったのだ。ディスプレイが20字×4行くらいしかないので、打ちながら文章を考えるのは難しい。大して使わないで埃を被った。2台目はキヤノン製、CRTディスプレイ付きで、見出しにはアウトライン文字(2書体)が使え、段組みもできる。これはよく働いた。同人誌を随分作った(入力、レイアウト、プリントまで。あとは二面付けして色上質紙に両面コピー、重ねて折って出来上がり)。この時のデータはその後MS-DOSに変換してサルベージした。ただ、3段組のテキストデータがバラバラになって、復元にはかなり手間がかかった。PDFからコピペしたテキストが、今でもそんな感じになる。

仕事帰りに二階のMacを触るだけでは飽き足らなくなって自分用の機械を買った。PowerBook 180c。30万くらいしたと思うが、現金で。今ならとても手が出ない。メモリは4MBだったか8MBだったか。ギガじゃない、メガ。ハードディスクも300MBくらいじゃなかったかな。今iPhoneのゲームのスクショを見たら10MBくらいある。隔世の感。自分の機械があるということは、パソコン通信ができるということ。インターネットはまだなかった。いや、あったよ、ネットそのものは。でも、日本で個人が自由にアクセスできるものじゃあなかった。あったのはパソコン通信ニフティサーブのフォーラムを覗けば、新しい情報だらけの宝(とゴミ)の山。専用ソフトがあって、起動すると回線を開いてニフティにログインし、指定したフォーラムを巡回してログをダウンロードして回線を閉じる。家の電話をモデムにつなぎっぱなしにはできないし、電話代も馬鹿にならない。そんなわけで大抵はROM(リードオンリーメンバー)、DTPや印刷、文字関係のフォーラムでいろんな人が有益な情報をタダで提供してくれていた。何人かは今Twitterにいる。

これから書くことは、今の人は多分知らない(まぁ、この文章を見つけて読んでる人たちは多分知ってるんだけど)。
まずはリソースの話。リソースといっても「いいから早く僕にリソース寄越せ」(by 太公望)のリソースではない(いや、こっちの方が知らないか)。
昔のMacintoshには、一つのファイルの中にデータフォークとリソースフォークがあった。リソースとは大雑把にいうとファイル情報で、アイコンはどんなのだとか、どのアプリケーションで開くかとか、つまりはファイル名についてる拡張子(.txtとか.docとか)の役割をもっと拡大したものだ。
リソースを編集できるアプリケーションがResEdit。これが楽しくて仕方がない。CD-ROMの隠しファイルが丸見えになるし、好きな画像をファイルのアイコンにしたりできる。参考書を頼りに実験しまくった。BASICの書き換えはミスっても大したことはなかったが、リソースを書き換えてドジるとシステムを破壊する恐れがあるので、緊張しつつ。

次にプリンタの話。当時DTPでよく使われたプリンタがOKIのMicroline。モリサワの5書体搭載ってのがよく売れてた。DTP以前から、プリンタにはフォントが内蔵されていた。コンピュータ側には画面表示用のビットマップフォントしかなく(ファミコンのドット字のようなもの)、印刷用のフォントはプリンタ側にあった。Macintosh DTPでも事情は同じ。あ、ちなみに当時まだWindows DTPなんてなかった。Windowsが日本に来たのは95年だから。で、Windows以前のNEC富士通のパソコンにも、こうしたプリンタは対応してた。Macintosh専用じゃ買い手が少なすぎる。そしてNECにはNEC専用の漢字セットがあり、富士通もまた同様。プリンタはそれぞれの文字セットを全部内蔵していた(注)。

あとフォントの話でもうひとつ。当時のMacintosh DTPで使える和文フォントには2種類あって、ひとつはビットマップだけのもの。もうひとつがATM和文フォントというもの。今主流のOpenTypeはまだないし、TrueTypeはDTPには使えなかった。ATMとは銀行にあるやつじゃなくて、ADOBE TYPE MANAGERの略。 DTPの肝といえるのが、この技術で作られたTYPE-1 フォント(このたびサポート廃止が決まりました。隔世の感)。フォントファイル(これはほとんどリソース)とビットマップデータのふたつで一つのフォントを構成している。コンピュータでフォントをレンダリングし、画面上に拡大しても綺麗な文字を表示する。画面で見た目を確認しながらデザインできる。これがDTPですよ。とはいえ1フォントあたり数百字しかない欧文と違って、日本語フォントは六千字以上。これ全部レンダリングしてたら当時の虚弱なマシンではページを表示するのにどれだけ時間がかかることか。だから小さなサイズの文字はやっぱりビットマップで表示してた。理論上はプリンタにそのフォントが入ってなくても、Mac側からデータを送ることで印刷できた筈。僕は試してない。今ではマシンパワーが上がってプリンタにフォントをインストールする必要もなくなった。

ニフティのフォーラムで得た知識の中でも特筆すべきはフォントの話。プリンタの中にはMacintoshでは出力できない「文字」が入っている。これらをプリントする裏技があるのだ。例えばNEC外字。JIS以前からIBMはコンピュータ用の漢字セットを作っていた。それをJISを作るための資料として提供してくれたのだが、JISはすべては採用しなかった。こぼれた文字のうち400字ほどをNECは自社の文字セットに採用した。これがプリンタには入っているが、Macでは使えない。では使えるようにしようと考えた頭のいいヒトがいて、フォントファイルとビットマップを作って「外字フォント」として販売した。プリンタから出力されるのはフォントベンダー(モリサワなど)がちゃんと作ったフォントだからいわばタダ乗りフォントである。タダ乗りとはいえ、Macに入れる部分を作るのだって技術は必要だから、これ結構売れた。フォーラムではこの「外字」を批判する書き込みがいっぱいあったが、手軽にこの裏技を使う方法も紹介された。
Macintoshが準拠しているのは83年規格なので、出版物には使いたくない字体しか出せない漢字がある。それを78年規格の字体で出力する裏技である。ResEditでフォントファイルを開く。意味不明な文字列の中から「83pv」を探し、ここだけ書き換えて別名で保存する。これだけ。このフォントファイルをインストールし、字体を変えたい漢字をそのフォントに変えてやる、するとあら不思議、78年規格の字体がプリンタから出力される。

金がないので滅多にフォントを買わない聚珍社だったが、府川氏が是非にと言って買わせたフォントが「海舟明朝体」。ビーユージーというコンピュータ関連の会社が販売したこのフォント、大日本印刷の本文用活字の形をしていた。聞いた話ではCTS大日本(CTSは電算写植のようなもので、大日本印刷の活字からデータ化した書体を出力していた)のフォントデータをMac用に仕立て直しものらしかった。大日本印刷の前身である秀英舎の名付け親が勝海舟だったことに因んだものだ。早速プリンタにこれをインストールし、裏技フォントも作った。ただ、Mac側にはビットマップしかないフォントだったので、画面では字形は確認できない。府川氏は『組版原論』の本文にこのフォントを使った。ただ、このフォントを持っている印刷所はない。
当時のフォントはプリンタにフォントをインストールして出力するが、これは「低解像度用」で、印刷所のイメージセッターには「高解像度用」を入れなければならないとされていた。これはお高いのである。デザイナーが気に入ったフォントを見つけて使っても、印刷所がフォントを買ってくれないと印刷できない。DTPの初期、さまざまなフォントが発売されても出版物でそれを見かけることがなかったのはそんな事情もある。そんなわけで『組版原論』は聚珍社のプリンタで出力した普通紙を版下として印刷された。
この版下作成が大変だった。QXPの限界を越えるために文字ボックスを一行ずつにして連結し、調整による行長の破綻を回避するという手法はデータがめちゃくちゃ重くなる。数十ページをプリントしようとすると途轍もなく時間がかかる。帰りがけにプリントを実行して次の日にはプリントが終了していればいいのだが、途中紙詰まりで止まったままになっていたこともよくあった。

また、『組版原論』にはJISにもNEC外字にもない珍しい文字がいくつも必要になる。無いものは作るしかないので僕が作ることになった。同人誌を作っていた頃からワープロでいくつも外字を作成した経験があったので。ただイチから作るのはかなり難しい。そこで『日活明朝体』というフォントを買ってきた。これはATM和文フォントなので、イラレでアウトラインをとって部品の組み替えができる。慶應の略字(广の中にKとOが入っている漢字?だ)なんかも作った。しかし、日活明朝体と海舟明朝体ではエレメントのデザインが違う。海舟をATMフォントにできないものか? そんなことも考えた。
ResEditで日活のフォントファイルを開いてみる。そして海舟のCD-ROMからプリンタフォントをコピーして開いて両者を比べてみた。同じ構造のところもあるが、まるで違うところもある。わかる範囲でとりあえず作って聚珍社のMacに入れてみた。平仮名と片仮名が画面上に綺麗に表示された! これが限界、漢字までは力及ばなかった。残念。それにしても、このATM仮名フォントをイラレでアウトラインのデータにして保存しておけば、後々随分遊べたのにな。

思い出すままつらつらと書いていたら随分長くなってしまった。まだあるけどここまでにしておこう。

【注】メーカーごとに漢字セットが違う件にはJIS規格が関わっている。漢字のJIS規格は78年に初版が出て、83年に改訂版が出た。これはその2年前、それまでの当用漢字表に代わる常用漢字表が告示されたことと密接な関係がある。日本で公式に使うことのできる漢字に関しては、3つのお役所が関わっている。常用漢字表は文部省(文部科学省)および文化庁、子供の名付けに使える人名用漢字法務省、そして情報通信機器に用いるJISの文字コード規格は通産省経済産業省)。普通ならこの中では文部省が一番弱い。しかし
文字のこととなると力関係が逆転する。81年、常用漢字表が告示されると、法務省はすぐ対応する。常用漢字表に採用された漢字を人名用漢字から削除し、代わりに名付けに用いたいという要望の多かった漢字を追加した。JISはこれに対応しつつ、さらに大胆な改訂を行った。燈を灯に変更した常用漢字表を参考に、今後も字体の簡略化が進むと考え、それを先取りする形で多くの漢字の字体を変更したのだ。また第一水準と第二水準とに異体字のペアが存在する場合、簡略な方を第一水準に置くための入れ替えを行った。これが大問題となった。78年の規格では当用漢字字体表で生まれた新字体は第一水準に置き、旧字体を第二水準に置いたが、表外漢字については漢和辞典等で正字とされる字体を第一水準に置き、固有名詞等で使用実態のある俗字や略字を第二水準に置いたのであって、決して簡略な方を第一水準に置いた訳ではなかった。
新聞や雑誌では当用漢字表常用漢字表にある漢字のみを(固有名詞等は別として)使用し、書籍では表外の漢字も使用するが、表にある漢字についてはその字体(新字体)を用いるものの、表外の漢字は辞典通りの字体を使用するのが通例であった。JISが推した簡略漢字は誰も使わないものだったし、第一水準に置かれたために変換候補の早い方にこれらの簡略漢字が出現することは、入力時のストレスあるいは校正での赤字の発生を増やすことになった。そして旧規格に従って製造された情報機器と新規格の機器とで情報交換をした場合に予期せぬ「誤植」が発生することにもなったのだ。
先に書いたNEC富士通の独自の漢字セットはここで生まれた。NECは自社製品の一貫性を重視して78年の規格のままの製品を作り続け、富士通常用漢字表に対応して一部の漢字の字形を変更したものの、それ以外は旧規格準拠のままとした。こんなことは普通はあり得ない。工業規格というものは、新しい規格ができればそれのみが規格であって、旧規格準拠の機械を作り続けるのは規格を満たしてはいないことになる。83年の改訂をした人々は「まだこの漢字規格に準拠した製品は多くなく、今なら間に合う」と見込んだのかもしれないが、それはとんだ誤算であった。規格ができたからと言って、すぐにそれに準拠した製品が売り出される筈もなく、ましてや数千字の漢字を表示・印刷する技術の開発がすぐさまできる訳がない。やっと販売に漕ぎ着けたところでの新規格など迷惑でしかなかった。さらに誤算だったのは、国語審議会周辺で「漢字の字体をさらに簡略化するのは好ましくない」という意見が強まっていったこと。この迷惑規格の問題の解決には長い時間がかかった。

 

「来」と「黒」

銀河鉄道の夜』自筆原稿で気になった字の一つが「来」。旧字は「來」だが、昔からあまり書かれてこなかった字体で、智永の千字文も……

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(右が楷書、左が草書。楷書でも「来」で、しかも点ふたつは繫がっている)

よく見られるのがこの「耒」(耕・耘の部首、これも「ライ」。ただし現代中国音は異なる)の形の「来」だ。日本のフォントでは一画目を左払いに作るが大陸のフォントでは横画だ。
手塚治虫の自筆ネームでもこの字体を書いている。

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ところが、賢治さんは原稿に74回「来」を書いているうち、なんと45回が「來」なのだ。清書の際に意識して正字を書いたというわけでもなく、黒インクの書字スピードの速い行でも「來」が出現する。

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残り29回は「耒」の形、そのほとんどは草書だ。

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だが、鉛筆で楷書の「耒」を書いているところも3個ある。

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もう一つ気になるのが「黒」。JIS漢字では包摂規準の99番が「黒」と「黑」で、この字体差を区別しないことになっている。Unicodeでは区別している。ところが、JIS X 0213で、「人名用漢字許容字体」として包摂規準を適用せず追加した文字の中に「黑」があるからややこしい。「墨」にも「墨」が同じく追加された。一方、『濹東綺譚』の「濹」は包摂規準99番が適用されるので、「サンズイに墨」も「サンズイに墨」も同じ「濹」ということになる(フォントは両方のグリフを持っているので、切り換えることはできる)。
大陸は簡化字でも「黑」なのだが、実際のところ手書きで「黒」と書かないかというとそんなこともない。
黒沢明監督は最近は「黒澤明」と表記されることが多いようだが、自筆(?)で「黑沢明」と書いてあるのを見た記憶がある。
さて、賢治さんだが、45回書いたうち、「黑」12個、「黒」13個、草書が20個だった。

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なんとも絶妙な交じり具合である。

『銀河鉄道の夜』原稿中の異体字

明治・大正の作家の自筆原稿を見て、「(旧字でなく)常用漢字を書いている⁉︎」と驚く人がいる。作家は新字体を書いているわけではなく、当時普通に用いられていた俗字・略字を書いているに過ぎないのだが。
たとえば作家が「体」と書いたとしても、その当時なら印刷所では「體」を拾うのが普通で、それが現代では常用漢字に直して「体」となるが、べつに原稿に忠実にそうしたわけではない。
もっとも、作家の書いた異体字が活字ケースに在庫している字と同形だった場合には、その形のまま拾われることもある。漱石の書いた「双(雙でなく)」や樋口一葉の「皈(歸でなく)」などはそんな事情があるかもしれない。
さて、『宮沢賢治銀河鉄道の夜」原稿のすべて』から、異体字に着目して拾ってみよう。
前回にも触れたが、賢治さんは同じ漢字を草書で書いたり楷書で書いたり、略字を使ったり正字をわざわざ書いてみたりと、活字本では統一されてしまう様々な異体字を書いている。その理由はわからないが、この原稿の成り立ちの複雑さが一因であるようにも思える。
銀河鉄道の夜』の原稿は、初めに鉛筆で下書きされ、途中まで青インクで清書された後、また推敲されてブルーブラックのインクで再度途中まで清書され、そこから鉛筆と黒インクで書き足され、直されている。数年にわたる改稿を経ながら、遂に発表には至らなかったものだけに、自筆とはいえ様々な時期の様々な精神状態が積み重ねられた原稿なのだ。
普通に考えても、下書きの段階では心に浮かぶ言葉を急いで文字にしようとするために走り書きとなり、草書や略字が多くなるだろう。一方、下書きを傍に置いて清書するときには、原稿用紙の升目に合わせて一字ずつ丁寧に書いていくから、楷書で書かれ、略字もあまり使わないということになるだろう(実際にどうなのかは検証しなければわからない)。
ここでちょっと脱線して、原稿を活字化する際の編集の問題に触れておこう。
第一章の表題だが、十字屋書店版の全集以来ずっと「午後の授業」となっていたのだが、校本全集からは「午后の授業」となった。賢治さんがそう書いているからだが、もちろん「後」の簡体字が「后」なので、「后」を「後」に直して出版することには何ら問題ない。ただ、『銀河鉄道の夜』の中でこの字が使われるのはこの「午后」と「放課后」、そして「後光」だけであり遣い分けがあると考えられなくもない。校本全集ではその点を考えて「午后」としたようだ。しかし、「后」が出現するのは黒インクの走り書きの草稿であり、「後」はブルーブラックインクの清書の原稿にしか現れない。また「後光」は二箇所にあるが、もう一つは鉛筆の古い草稿に黒インクで手を入れた箇所に出現し、「后光」となっている。要するに賢治さんは走り書きの際には「後」を「后」と書くのであり、遣い分けは存在しないので、「午后の授業」とする理由はないのだ。

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繁体字簡体字の対応という意味では、「燈」と「灯」もそうで、当用漢字字体表までは「燈」だったのを常用漢字表で「灯」に字体変更しているという経緯もある。したがって常用漢字で印刷するならすべて「灯」にしてしまうところなのだが、過去の全集も校本全集以降もこの字については賢治さんの遣い分けに従っている。「電燈」「燈台」などと「あかり・ひ」と訓読みする「灯」を区別しているのだ。

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「燈台」のついでに「台」と「臺」について。十字屋書店版やそれを親本にした岩波文庫版ではすべて「臺」、戦後の出版ではすべて「台」に統一されている。賢治さんは「台」と「䑓」を遣い分けの様子なく混在させている。

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さて、まず原稿で草書体が書かれている文字を探してみる。草書だということは書体が違う(楷書でない)のだから「異体字」ではないわけで、話が違うことになってしまうが、とりあえずこれは草書だから別問題ということを示すために並べてみる。

f:id:koikekaisho:20150720122647p:plain「一時間」(黒インク) f:id:koikekaisho:20150720122703p:plain「一時間」(黒インク)

f:id:koikekaisho:20150720122736p:plain「早」(黒インク) f:id:koikekaisho:20150720122809p:plain「早」(ブルーブラックインク)

f:id:koikekaisho:20150720122930p:plain「高」(鉛筆)

f:id:koikekaisho:20150720122958p:plain「博」(黒インク)

f:id:koikekaisho:20150720123022p:plain「夜」(黒インク)

f:id:koikekaisho:20150720123047p:plain「見」(黒インク)

f:id:koikekaisho:20150720123115p:plain「伝」(黒インク) f:id:koikekaisho:20150720123144p:plain「伝」(ブルーブラックインク)

 

その他にもあるが、草書が使われるのは鉛筆と黒インクのみで、ブルーブラックインクや青インクでは書かれていない。

ただ、「学」だけは、

f:id:koikekaisho:20150720123233p:plain「学」〈長靴をはいた學者らしい人が〉(ブルーブラックインク)

f:id:koikekaisho:20150720123401p:plain「学」〈その大学士らしい人が〉(ブルーブラックインク)

と、一度だけ正字を書いて同じ紙に略字(草書の形)を書き、その後もすべて略字である。次の用紙では、二回の「大学士」の間に、

f:id:koikekaisho:20150720123427p:plain「時間」〈「もう時間だよ。行かう。」〉(ブルーブラックインク)

が書かれているので、この「学」も草書の意識はないように思われる。
また、その前に、

f:id:koikekaisho:20150720123455p:plain「実」〈くるみの実のようなもの〉(ブルーブラックインク)

f:id:koikekaisho:20150720123511p:plain「実」〈「くるみの實だよ。〉(ブルーブラックインク)

と隣り合う行に異なった字体で書かれているものもある。「実」も草書の形からできた略字だが、もはや草書の意識はない。

 

そのほか、字体の異なるものは、

 

f:id:koikekaisho:20150720123559p:plain「円」(ブルーブラックインク)

f:id:koikekaisho:20150720123613p:plain「円」(ブルーブラックインク)

f:id:koikekaisho:20150720123643p:plain「円」(黒インク)

 

f:id:koikekaisho:20150720123705p:plain「図」(ブルーブラックインク)

f:id:koikekaisho:20150720123743p:plain「図」(ブルーブラックインク)

f:id:koikekaisho:20150720124036p:plain

「図」(ブルーブラックインク)

f:id:koikekaisho:20150720123851p:plain「図」(鉛筆)

f:id:koikekaisho:20150720123913p:plain「図」(黒インク)

 

f:id:koikekaisho:20150720124108p:plain「写」(ブルーブラックインク)

f:id:koikekaisho:20150720124133p:plain「写」(黒インク)

 

f:id:koikekaisho:20150720124159p:plain「帰」(ブルーブラックインク)

f:id:koikekaisho:20150720124238p:plain「帰」(ブルーブラックインク)

f:id:koikekaisho:20150720124258p:plain「帰」(黒インク)

 

f:id:koikekaisho:20150720124350p:plain「声」(ブルーブラックインク)

f:id:koikekaisho:20150720124428p:plain「声」(青インク)

f:id:koikekaisho:20150720124510p:plain「声」(黒インク)

 

f:id:koikekaisho:20150720124539p:plain「奇」(ブルーブラックインク)

f:id:koikekaisho:20150720124554p:plain「奇」(青インク)

 

などで、やはりブルーブラックインクの清書の時に正字を書こうとする意識が強い。


もう一つ、賢治さんの特徴的な字体として「北」がある。

f:id:koikekaisho:20150720124737p:plain「北」(ブルーブラックインク)

この簡化字の「業」(业)のような「北」も面白い。

宮沢賢治の手書き文字

1980年に出た『新修宮沢賢治全集』(筑摩書房)の第十二巻には箱全面を覆う帯がついていた。毎月こつこつとこの全集を買っていた頃が個人的な第二次宮沢賢治ブームだった。この帯の裏表紙側には『銀河鉄道の夜』冒頭の原稿の写真が載っていて、賢治さんの手書きの文字に大いに興味をかき立てられた。

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まずタイトルが『銀河鉃道の夜』と書かれている。戦前の出版物なら『銀河鐵道の夜』だし、戦後なら『銀河鉄道の夜』となる。俗字の「鉃」は活字にはならない。

原稿全体を見てみたいと思いながらも当時は術もなく、そのまま時がすぎた。
Twitterで、『宮沢賢治銀河鉄道の夜」原稿のすべて』という本が存在することを知ったのは最近で、にわかに第三次マイブームに突入したわけだ。

影印を舐めるように見ながら、まずは賢治さんが変体仮名を書いていないか確かめた。以前芥川龍之介『河童』の原稿が公開されたとき、「か」や「な」が概ね変体仮名で書かれていることを確認したが、芥川より五歳若い賢治さんはほとんど変体仮名を用いていない。「が」「な」「に」の三字にのみ、ところどころ変体仮名を用いている。同じページで二種類の字体が混在するが、明確な遣い分けのあるようには見えない。

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強いて言えば書くスピードが上がると変体仮名が出現しやすいような傾向があり、また同じ字が近くに並ぶ場合に片方を(意識的に)変体仮名にすることもあったかもしれない。
これらも活字本からは知ることのできない情報だ。

漢字では、まず「言」が二回しか使われていない。活字で「言」となる他の箇所はすべて「云」が書かれている。

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「鉄」は一箇所だけ「鐵」(ちょっと崩れてるが)が書かれ、ほかは「鉃」だ。

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「沢」は賢治さんの苗字にもあるが、本人が遣い分けを意識していたという。『春と修羅』の表紙が「沢」で箱が「澤」なのは本人の意思ではないようで、箱に「詩集」と銘打たれたのも気に入らなかったらしい。
原稿では概ね「沢」だが「駅」は正字。一箇所だけ草書風に書いたところがある。

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「水」は清書の意識がある箇所では楷書で書いているが、草稿では草書になることが結構ある。同じページで二種類の字体が出現することもある。

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「事」も草書と楷書、行書風の「亊」も書かれている。

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続きはまた暇を見て。

 

宮沢賢治とエスキモー?

宮沢賢治の作品に初めて出会ったのは、伯父から贈られた岩波書店刊の二冊の童話集(現在は品切れ)だった。初版は1969年11月とあるから、読んだのは遅くとも1964年前半で、私は五歳だった。

 

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そのなかで、『銀河鉄道の夜』に次の一節がある。

 

「鳥が飛んで行くな。」ジヨバンニが窓の外で云ひました。「どら、」カムパネルラもそらを見ました。そのときあのやぐらの上のゆるい服の男は俄かに赤い旗をあげて狂氣のやうにふりうごかしました。するとぴたっと鳥の群は通らなくなりそれと同時にぴしゃぁんといふ潰れたやうな音が川下の方で起つてそれからしばらくしいんとしました。と思つたらあの赤帽の信号手がまた青い旗をふって叫んでゐたのです。「いまこそわたれわたり鳥、いまこそわたれわたり鳥。」その声もはつきり聞えました。

 

この一節は、反故の原稿用紙の裏に鉛筆で書かれた最も古い草稿からまったく変わっていない。『銀河鉄道の夜』は数次にわたる改作が行われ、死後活字になってからもその原稿をどう解釈するかによって様々な異なる版が作られてきたが、この一節についてはどの刊本も(改行位置、仮名遣い、漢字の字体、読点の追加、送り仮名やルビの付け方および漢字をかなに開くなどの編集上の変更の除いては)同一である。

 

賢治は「ぴしゃぁんといふ潰れたやうな音」の正体について何も書いていない。しかし、五歳の私にはその音ははっきりしていた。「手ばたき山」の打ち合わさる音だと。

 

宮沢賢治童話集より前に、伯父から贈られて読んでいた「岩波おはなしの本」シリーズに、「カラスだんなのおよめとり」(1963年7月、これも品切れ中)があり、そのなかのいくつもの話に「手ばたき山」が登場しているのだ。

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(今日図書館で久々の対面をした)

 

渡り鳥の渡りの途上に必ず通らねばならない厳しい関門「手ばたき山」。アラスカエスキモーの民話に登場するこの山のことだと、五歳の私は素直に納得したのだった。

 

だが、『銀河鉄道の夜』のこの一節が書かれたのは1924年という。「カラスだんなのおよめとり」の原著は『BEYOND THE CLAPPING MOUNTAINS Eskimo Stories from Alaska』by Charles Edward Gillham and Chanimun。1943年刊行の本で、今ではウェブ公開されている。

https://openlibrary.org/works/OL182365W/Beyond_the_Clapping_Mountains

 

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この民話集がアメリカで出版される20年も前に、宮沢賢治は「手ばたき山」のことを何で知ったのだろうか。もちろん民話自体はずっと古いものだろうが、それが明治・大正時代に紹介された証拠が見つからない。あるいはアラスカエスキモーのみでなく、もっと広範囲にこの「渡り鳥の関門伝説」が存在し、賢治の知るところとなったのか。

まったくわからない。

 

半世紀前には納得していたことが、大疑問になってしまったというよくある話。

今年は変体仮名の符号化が……

10月末に更新したっきりなので、そろそろ何か書こうと思いつつ面倒で……。
ネタを思いついてもTwitterに断片的にアップして事足れりとなってしまう。

変体仮名の符号化に若干進展があったことも、書いておこうと思いつつそのままになっているが、今月中に国内でのレパートリー取りまとめと符号化方法の議論を行い、9月にはISO/IEC 10646への追加提案をする予定だそうだ。

そこまで進んだところで水を指すのもなんだが、ホントに変体仮名を符号化していいものなのだろうか、と思い悩むわけで、そのへんのことを書いておく。

まずはTwitterに投げた画像ふたつ。

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智永の『真草千字文』から草書の漢字をいくつか拾っただけのもの。
「知婦也女為」はひらがなの「ちふやめゐ」そっくり。
「阿以可登者婦之乃夜耳」は変体仮名の「あいかとはふしのやに」と変わらない。
もちろん仮名が成立する以前に中国で書かれた文字である。

●「仮名(かな)」は日本語を書き表すために日本で生まれた文字である。
●「仮名」とは漢字を用いて日本語を書き表す用法であり、文字そのものは漢字である。

矛盾するようだが、どちらも正しい。歴史的に二つの側面を仮名は持っている。
それを踏まえて「変体仮名の符号化」を考える。

現代の視点では「変体仮名は平仮名の異体」であるから、平仮名に異体字選択符号を付けることで符号化すればよいと言える。IVSならぬKVS。「あ」は「あvs00」で、「阿」が「あvs01」などとすればいい。vsに対応しないフォントでは自動的に平仮名に戻ってくれる。
ところが、この方式だと上に挙げた「夜」とか、下の「等」のような場合に厄介なことになる。

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「夜」は「や」「よ」の両方の変体仮名、「等」も「と」「ら」の両方の変体仮名として用いられるので、自動的にどちらかに戻されては間違いになってしまう。

では、歴史的視点に立って、「変体仮名は元となった漢字の異体字」と考えてはどうか。
例えば、「阿」は「阿kvs00」とか、「以」は「以kvs01」(「以kvs00」=「い」)とするわけだ。
書作品を活字に起こす際には変体仮名は漢字で表すのが通例だから、kvsに対応しないフォントでは自動的に漢字に戻ってくれるのも悪くない。
ところが、これにも問題があって、元になった漢字が何かという点で異説のある仮名が存在することだ。
「つ」は「川」だが、「門」「⾾」説もあるし、「て」の変体仮名に「天」と「弖」の二説あったりする。

それならやはりvsはあきらめて、普通の符号位置を与えたらどうか、U+1B002からU+1B0FFで254個、U+1C000からU+1C0FFで256個の「空き領域」がある。現状のレパートリーは287字なので十分なスペースが空いている。
ただ、どう見ても「草書体の漢字」にしか見えない「変体仮名」にこれだけの独立した符号位置をくれというのは、なかなか度胸(というか厚かましさ)がいる。おまけにU+1B001(や行のye)とそっくりの「あ行のeの変体仮名」も入れることになる……。

どうするのかなぁ。

異体字ってやつは本当に…

常用漢字表に示された漢字の字体には、
A:伝統的な楷書の書写体
B:康熙字典
C:略字体
の三種類が混在している。

同じ漢字でありながら字体が異なるもの、つまり「異体字」には、
a:伝統的な楷書の書写体で不採用となった字体
b:康熙字典体で不採用となった字体
c:略字体で不採用となった字体
d:他の書体(楷書でなく篆書、隷書、草書)で書かれたものを無理に楷書としてしまった字体
e:同音同義だが別の造字法で作られた漢字

などがあるが、常用漢字表(当用漢字字体表)以前から存在する字体という意味でひとしなみに「旧字」と言われてしまうこともある。

常用漢字表で括弧付きの漢字がbのパターンだが、この中にはaかつbというものもある。
例えば「桜(櫻)」「沢(澤)」など常用漢字がC(略字)のパターンだ。
aであってbでないものというと「㑹」がそうで、bは「會」、Cが「会」という具合だ。

「高」の場合は「髙」がaで、「吉」のaが「𠮷」というように伝統的な楷書の書写体が康熙字典体に変えられたケースでは必ずと言っていいほど外字が発生してきた。
「塩」の場合はAと言っていいが、「鹽(b)」も書かれたことが『徒然草』にも出てくる。

さて、何の話かというと、またも始まるタイポグラフィセミナー

http://www.visions.jp/b-typography/

告知に大きく載った講師の名前が難しい。日下さんのブログでは、「告知の羽良多さんの苗字〈良〉の游築見出し明朝体は、字游工房に作ってもらった。」とある。

http://www.bgx.jp/blog/?p=500#more

「羽」と「平」はGSUBでもIVSでも康熙字典体に変更できるが「良」は無理。康熙字典体も「良」なので。

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左のは「羽󠄁良多平󠄁吉」ではなく「羽󠄁一艮多平󠄁吉」と打って誤魔化している。

小宮山さんの資料では、確かにこう作った「良」が存在したことがわかる。

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異体字ってのはホント厄介ですなぁ。